1994年9月、リクルートコンピュータプリントでバイト開始
1997年7月、リクルートHRマーケティングにはじめての就職
〜課長と呼ぶな!〜
「会社」というものはどこでも、○○社長、××課長という感じで呼び合っているものだと思っていたし、目上の方に対して、なんとなく上司の言うことは絶対で、自分の考えを話すことなんて許されないと思っていた。ましてや「お前はどうしたい?」なんて問いかけがあるなんて思ってもみなかった。ネクタイも絶対しなきゃいけないものだと勝手なイメージを持っていた。ところが、入社1日目から、このイメージはことごとく覆されることになる。
まず、僕が配属された営業1課には、Mさんという同姓の方がお二人いらっしゃった。おひとりは課長で、もうひとりは2年目の社員。呼び分ける必要性から、当然のように「M課長」と呼んだ。すると、、、「うちの会社では役職で呼ぶ文化がないから、やめてくれ。Mでいいから。あいつは、Jと呼ばれてるし。」と。
リクルートでは、社長まで「さん」付け、あるいは愛称や下の名前で呼ばれたりする。わかりやすいエピソードをあげると、当時のあるリクルートの役員は、「ぼんちさん」と呼ばれていたし、僕の後輩で「ようこ」と呼んでいる人は、3名いた。
この文化、本当に徹底していてすごいなと思う。日常の会話の中だけでなく、全社キックオフミーティングと言われるような正式なセレモニーの中でも、「次は、ぼんちさんのお話です」などと紹介されるのだから。
〜個人の尊重〜
リクルートで学んだ一番大きなことかもしれない。「個人を尊重する」ということ。当時、この文化が名刺のデザインにも表現されていた。縦型の名刺の一番上には、社名や会社のロゴではなく、自分の名前がTOPにある。その下に肩書き、所属部署名、会社名などがあり、一番下を支えているのが、RECRUITのロゴマーク。
社内の会話でも良くこんな風に聞かれる。「君は、どうしたいの?」上司は、部下に考えさせる。仕事の中心にいるのは、常にあなたですよ、というメッセージもあるのだろう。誰の仕事でもなく、自分の仕事。まずは自分はどうしたいのかを、徹底的に問われる。上司からのアドバイスがあるときには、それからでも遅くはない。
この文化が僕の気持ちを大きく動かした。「こんな風土の会社だったら、僕でも会社という組織の中で仕事をやっていけるかも。。。」と。のちに、このリクルートコンピュータプリントという制作会社のバイトをやめ、リクルートHRマーケティング(現:リクルートジョブズ)に正社員として中途入社することにしたのだが、僕自身が、指導される立場の時も、指導する立場になってからも、必ず「君はどうしたいの?」という会話がなされていた。
社員どうしが白昼堂々と「何歳で会社やめるの?」という会話も珍しくない。決して遠回しに「やめなさい」と言っているわけではなく、それぞれが自分のキャリアに対して真剣に向き合っている証だと思う。
そう。「個人」とは、周りの人だけではなく、自分自身も含まれる。周囲の人を尊重しながら、同時に、自分自身の気持ち、感情、意志も尊重してあげることが大事なんだと、学んだ気がする。前に書いた「役職でなく、名前で呼ぶ文化」も、個人を尊重する、ということがベースになっているんだろうと感じる。
〜お気楽アルバイターから、ビジネスマンへ〜
前述のとおり、リクルートコンピュータプリントには、トラフィッカー(原稿を運ぶ人)でバイト入社した。そんなお気楽な僕が、ビジネスの視点を持てるようになったのも教育担当について下さったJさんのおかげだ。
より高度な専門知識や最新の情報に関する感度。社内協業者への気配り。顧客への愛情。業績へのこだわり。後輩・部下育成に対する姿勢。すべての面で、Jさんから強く影響を受けていると感じる。
Jさんは、僕と同じ大阪出身。本当に気さくで、愛情たっぷりの方だ。通勤経路が途中まで一緒だったということもあり、深夜まで仕事をした帰り道、よく食事をごちそうになった。
また仕事面でも、僕のために特別に時間をあけてくださり、本当に丁寧に、DTPや印刷技術について会議室にこもり、マンツーマンで教えていただいた。この指導によって、僕は認められるようになり、どんどん難しい仕事を任せてもらえるようになった。
単に荷物(原稿)を運ぶだけのバイトで入社した僕をトップ営業マンであるJさんのアシスタントに。そしてその後、業績責任を負ったアルバイター営業マンとして、デビューさせて頂いた。
のちに、Jさんには、結婚披露宴の司会までやっていただき、本当にお世話になりっぱなしだ。Jさんへの恩返しの気持ちを忘れず、Jさんからして頂いたことを自分の後輩に対して行うようにしている。このようなことは、人から人へ、まわりまわるものだ、と思うのだ。と、カッコつけて自分の考えのように書いたけれど、これもJさんから教えてもらったこと。「たまには僕が、、、」と言うと、Jさんはニッコリ。「林くん。こういうのはね、林くんがまた後輩にやってあげたらいいねんで。」って(^^)ホンマにあったかい人です。
〜あの一言への感謝〜
当時のお付き合いしていた彼女Tちゃん。アルバイトしながら女優としての活動をしていた彼女は口癖のように、「お金がない」と言っていた。芝居や映画をもっとたくさん観たい、でもなかなか十分に観ることができないというのだ。
僕は自分と同じバイトをしていて、彼女の生活環境も理解しているつもりだったので、「なんでそんなにお金がないの?どう考えても、まだまだ大丈夫でしょ?何に使っているの?」と聞いたところ、僕の頭の中にはない答えが返ってきた。
「私たちもう26歳でしょ? 貯金もしないでどうするのよ!」「・・・・・・」
その時の僕の貯金、たったの30万円。なにも言い返せなかった。同じ年齢で、大卒で就職した人たちがいくら貯金をしているかなどと考えたことがなかった。
当時、大学を出て3年半位が経過し、26歳で迎えたフリーター時代の終りごろ。僕は、モデルの仕事をしながら、リクルートコンピュータプリントで営業していた。モデルのギャラで約300万円、営業のバイトで、300万円。年収は600万円になっていたが、どちらかに絞ると、300万円という不安定な状態。
上記の具体的な金額も、確定申告の必要性から、あとから考えたら、そのくらいあったというもので、当時の僕は、生活の中で、そんな数字を意識することは全くなかった。
「貯金か。。。よし、貯金しよう」そう思いたった僕は、まずは300万円と目標を立て、1年と少しで、それを達成した。のちにそのお金は、今の妻との結婚式の資金となった。妻もTちゃんと面識があるが、「よくぞ、林を教育してくれた」とそれはとてもとても、感謝している。
〜リクルートの強さ〜
リクルートグループへの在籍、約12年(社員としては10年)。この中で感じたリクルートグループの強さは、「変化し続けること」そして「共に働く仲間たち」にあると、僕は感じている。
自社の新卒採用活動で、学生と会う機会を幾度も与えていただいた。その冒頭、自己紹介の中で、グループ全体の組織再編、会社合併などで自分の立場がどう変わってきたかを簡単に話していた。2年に一度くらいのタイミングで、合併により会社が変わり、人事制度も見直され、待遇も変わり、半年〜1年に1度、当たり前のように人事異動やミッション変更、上司や部下の異動により、人が動く。
学生から必ずもらう質問に「そんなにころころ変わって嫌にならないですか?」というのがあった。変化することに対して、はじめは、やはり落ち着かないし、嫌だと感じた。
モチベーションが下がった時期もあった。会社を辞めようかと考えた時期もあった。でも、次第に「嫌ならいつでもやめればいい。逆に変化についていける人間でないとこの会社では価値がない」と考えるようになった。組織とはこういうものだというあきらめに変わった。そして終盤には、これがリクルートの強さだと確信した。
最後の2年は、毎月のように中途入社のメンバーが加わり、育成しつつ、一方で退職者も絶えず、さらには上司も数ヶ月単位で交代。組織もなにもあったものじゃない、という中で、いかにパフォーマンスをあげていくか、お客様に最高のサービスを提供していくかを自分のメンバーと一緒に考え、動いてきた。
若いときの自分と同じように、変化に対応できないメンバーも多く、モチベーションマネジメントも大変だった。
激動の変化の中、一緒に苦労し、一緒に楽しんできたすばらしい仲間たちは、僕が会社を辞めた後も、慕ってくれ、事あるたびに連絡をくれる。僕のもとでアシスタントのアルバイトをしていた女性が正社員として入社し、現在、営業をしているのだが、全社MVP(約1500人)の頂点として表彰されたという連絡をくれた。
受賞したという事実が自分のこと以上にうれしく、また、本人にとっても最高にうれしい時に、僕のことを思い出してくれたことに、心から感謝したいと思う。報告をくれて、本当にありがとう。
1969年、佐賀県生まれ、大阪府堺市育ち。幼少期から生活保護家庭で強い劣等感を抱えて育つ。中学二年生の夏、脳性マヒの級友が、300mを1時間以上かけて泳いだことに感動し、千葉大学教育学部養護学校教員養成課程に進学。1992年に卒業後、劣等感から抜け出すべく俳優の道へ。国民的アイドルとの共演を果たすが、その後挫折。28歳でリクルートグループに就職。求人広告営業で8年連続表彰されるが、部下育成につまずき、コーチングと出会う。コーチの「人を応援する生き方」に使命を感じ、2008年独立。株式会社プラス・スタンダード代表取締役に就任。