2008年5月、株式会社プラス・スタンダード設立。プロコーチとして独立。
2009年6月、(一財)生涯学習開発財団認定プロフェッショナルコーチ 資格取得。
2010年4月、コーチ・トウエンティワン クラスコーチ デビュー。
2011年10月、ライフコーチ専門スクールライフコーチワールド 設立。
2011年12月、ヘルスコーチ・ジャパン認定メンタルコーチ 資格取得。
2012年2月、国際コーチング連盟プロフェッショナル認定コーチ 資格取得。
2012年3月、「世界でたった一人の自分を幸せにする方法」(経済界)出版。
2012年4月、日本メンタルヘルス協会基礎心理カウンセラー 認定。
2013年12月、CTIジャパンにて、コー・アクティブコーチング応用コース修了。
2013年12月、「自信がなくてもうまくいく!」※1(マイナビ)出版。
2015年2月、「30代からの自信の育て方」※1を文庫化(マイナビ文庫)出版。
2016年8月、国際コーチング連盟マスター認定コーチ 資格取得。
2018年2月、「ライフコーチング〜自分を強く育てる習慣〜」(パブラボ)出版。
2018年9月、母が急逝。
2021年5月、フィギュアスケーター吉岡詩果選手(山梨学院大学)とパートナーシップ契約締結
〜ボクがライフコーチである理由〜
コーチングを学び始めておよそ3年半。コーチとして、独立してからは2年が過ぎた。(2010年4月28日現在)
前の〜コーチングとの出会い〜 にも書いたけれど、コーチングとの出会いそのものは、テレビを見ていて、偶然としか言いようのないもの。でも、それを「一生の仕事にしよう!」と自分自身の無意識に働きかけていたのは、過去の強烈な体験の積み重ねがこの仕事を選ばせていたのだとつくづく感じる。
そう、やはり、この仕事をしているのは必然なのだ。
30代、40代。本来ならば働き盛りのはずだった歳に重度のヘルニアで5分と立っていられない体だった親父。ただでさえ、九州男児で、男気溢れる性格だったから、それはそれは、悔しかっただろうな。子どもだったボクは、それをわかってあげられなかった。
お袋も体が弱く、学歴もなく、そんな父を支えながら僕ら兄弟3人を育てあげてくれた。家では、毎日、お袋が口癖のように「お金がない」って言っていた。そのたびに、子どもだった僕は、とても惨めな気持ちになった。だから、今でも、この「お金がない」というセリフが大嫌いだ。
こんな家庭に育った僕は、中学2年のとき、脳性小児麻痺の同級生が水泳のテストで300メートル泳ぎきったことに心を打たれた。ハンデを持っている彼の頑張りに、勇気をもらった。そして、子どもの頃から、心理的な窮屈さ、惨めさから逃れるようにもがきながら生きてきた自分自身と彼の姿がオーバーラップした。
この経験が決め手で、大学の進路を「千葉大学教育学部養護学校教員養成課程」に選んだ。そして、ちょうど同じ中学時代、親父は僕を芸能界に入れようと、「タレント養成学校に行かないか?」と奨めてくれた。僕も「行く」と即答。
少し話はそれるけれど、親父が僕にこう奨めたのも、僕自身が芸能界にあこがれたのも、惨めな気持ちで育った自分のココロを華やかな表の世界で生きていくことで吹き飛ばしたかったのだと思う。
親父が生きていた僕の20代。僕がテレビや映画に出ていた時代、大阪に帰って一緒にのみに行くと、スナックのママなどに自慢げに話をしていたものだ。僕はそういうのが嫌だったのだけれど、嬉しそうに、そして誇らしげに話している親父を見ていると強く反抗することはできなかったし、ほんの少しだけ親孝行ができているのかなという子持ちもあった。
話を戻そう。大学卒業後、気持ちが向かうまま、芸能界の仕事で食べていけるように、アルバイトをしながらタレント活動を続けていた。30手前になって、芸能界での成功をあきらめて挫折。そして、会社員に。97年7月、28歳。遅すぎる新入社員だったから、自分が会社の中で生きていくポジションを掴み取るのに必死だった。毎日、15時間、仕事した。
僕は、自分の居場所を掴み取るのに必死だった。それは、子どもの頃からずっと、ずっと、ずっと、そうだった。自分自身を苦しめる見えない敵と戦ってきた。劣等感まみれだったらか、勝たないと、褒められないと、すごいと思われないと、自分が安心して「僕は居てもいいんだ」と思えなかったのだ。
サラリーマン時代は、「こんなに頑張っているのに。。。」と昇給や表彰という形で評価は頂いていたものの、課長に昇進できない自分の不遇を嘆き、「なぜ評価されないんだ」という思いを抱きながら、「理解してくれない上司が悪い」「部長へプッシュしてくれない課長が悪い」と他人の責任にしていたこともあった。(ほんとうに情けない。。。) 今振り返ると、サラリーマン時代も、常にもがきながら、仕事をしていた。
そんな中、幸運にもコーチングに出会った。心のあり方。人と比較しない自分の人生。他人のせいにしない自分の人生。自分で創る自分の人生。
37歳。コーチングに出会うことで、本当に少しずつだけど、僕は、自分で自分の人生を創り上げていく感覚、切り拓いていく感覚を持つことができた。
生活保護家庭という環境、父親が外に女をつくるなど、精神的に窮屈でゆがんだ環境で育ったことが、劣等感を深く植え付け、いつしか被害者意識を持つようになってしまっていた。自分の人生は自分で創ってやると思っていながらも、潜在意識では全て自分以外の何者かのせいにしていた。いろんなことが思い通りにならない理由を自分の外に求めてしまっていた。
コーチングに出会ったことで、大きく意識を転換できた。そして、今、自分の責任において、自分の人生を創り、以前からの憧れだった独立の夢を果たすことができた。だからこそ、僕は恩返しの気持ちで、以前の僕のように、劣等感を持ち、自信を持てない人や苦難を乗り越えようとしている人をサポートしたい。原点は、子どもの頃から抱えていた劣等感や窮屈な気持ち。そして、脳性小児麻痺の友人からもらった勇気。
ライフコーチとして、「困難な人生においても、誰もが持つ生きる力を引きだし、自分らしい“わたしの幸せ”を実現する」サポートをしているのはこういう背景があるからだ。
「一人ひとりが、自分の人生の責任を100%負い、自由に夢を語り、自分らしく悠々と生きていける社会」を創りたい。これが僕が望む社会であり、僕のビジョンだ。
もちろん、僕自身も、もっと成長したい。もっと、もっと、成長することで、より多くの方々に貢献できる自分になっていきたい。

1969年、佐賀県生まれ、大阪府堺市育ち。幼少期から生活保護家庭で強い劣等感を抱えて育つ。中学二年生の夏、脳性マヒの級友が、300mを1時間以上かけて泳いだことに感動し、千葉大学教育学部養護学校教員養成課程に進学。1992年に卒業後、劣等感から抜け出すべく俳優の道へ。国民的アイドルとの共演を果たすが、その後挫折。28歳でリクルートグループに就職。求人広告営業で8年連続表彰されるが、部下育成につまずき、コーチングと出会う。コーチの「人を応援する生き方」に使命を感じ、2008年独立。株式会社プラス・スタンダード代表取締役に就任。