【ボクの生き方】
「一事が万事」
「細部に魂は宿る」
さっき、あるレストランに12時の予約でランチに行った。
常連というわけでもないけど、約20年、年に2-3度、何度かゆっくりと個室で食事をしているお店で勝手はわかっている程度のお店。
予約を取るときに、「12時か12時半あたりで予約できますか?」と尋ねたら「お客様が時間をご指定下さい」と言っていただいたので「決めていいんですね。では、12時でお願いします」というコミュニケーションをとった。
12時ちょうどに到着して、「予約の方はこちら」という案内のあった表に名前を書いて待つ。
あとから予約なしの方が3組ほどいらっしゃって、別のボードに名前を書いて待つ。
12時7分、広い待合室に、ようやくお店の方が姿を見せた。ご案内頂けるかな?と思ったら、予約なしのお客さんが1組だけご案内された。
「あれ?おかしいな。そもそも12時に予約しているんだから、12時に一度は待合室に声を掛けに来るべきだよな。ま、でも、それは俺の常識。もう少し待つか。」
そんな思いで12時15分まで待つが誰も現れない。これはおかしい、と思って、待合室から扉の向こうの飲食スペースのホールへ入って行き声を掛けた。
「12時予約の林と申します。15分お待ちしたのですが、ご案内がないのでお声がけしたのですが」
「12時半ご予約のお客様ですか?」
「いえ、12時の予約です。15分間、声もかけられていないのですが、何が起きているのか確認して頂いて良いですか?」
「すみません。私は配膳の担当でして、待合室のことはわからなくて。」
「大丈夫、わかってます。なので、ご確認頂いても宜しいですか?」
「申し訳ございません。今、ご案内いたします。少々お待ちください。 では、こちらへどうぞ」
「ありがとうございます。あの、15分間、何がどうなっていたのか、ご確認頂いても宜しいですか?」
「申し訳ございません。私は配膳係でして、あちらのことはわからなくて」
「はい、それはわかっています。だから、あちらで何が起こっていたのかご確認頂いても宜しいですか?予約の認識はされていたのでしょうか?」
「申し訳ございません。予約の認識はしておりました。12時半からということで、お部屋の準備も私が先ほど致しましたので」
「なるほど、では、12時半からの予約だと連絡を受けていらしたんですね。では、予約を受けた方が12時半の、予約だと認識していた、ということですね。わかりました」
こんなやり取りをしました。
このやりとりの間、ボクの同席者が「もう良くないですか?お部屋に通して頂いたのだし」と言いました。
確かに「ご案内頂いた」という目的は達成されたかもしれません。
でも、ボクにとっては、良くなかったんです。ここから、内省が始まりました。
「何が良くないんだろう?」
謝ってほしいわけじゃない。
お店の対応としては、気がついたときに、すぐに「申し訳ございません」と謝ってくれた。
でも、それは「待たせていること」に対する謝罪。
何が起きているか、を正しく認識して、その誤りに対して謝罪してもらわないと意味がない。
いや、それでもない。別に、謝罪は大事ではないな、と。
まずは、ボク自身が納得するためには、何が起きていたかを知ることが、大事なんだ。
ここをうやむやにしたまま、「ま、いっか」は嫌なのだ。
そして、ボクが知った上で、相手にも知ってもらって、起きたことを確認して欲しい、のだ。
予約の電話の時、ボクは12時だと言った、という自信がある。そして、それを横で聞いていた人もいる。多分、間違えていなくて、電話の向こうの相手が受け間違えたのがおそらく事実。
しかし、それには、証拠が示せない。もしかしたら、ボクが12時半だと言ってしまったという確率は0%ではないからだ。
人は、思っていることと、違う行動をしてしまうこともある。どれだけ気をつけていても、だ。
だから、調べた結果、「12時半だと勘違いしておりました」という言葉でなくても良い。「12時半のご予約だと認識していました」で良い。つまり「自分たちが間違えてました」との認識を持たなくてもいいのだ。
そして、この店の予約受付のじじい(20年前からこの店を仕切っているので、このお店はこの人がオーナーなのかもしれない)は、帰り際のお支払い時、「先ほどはお待たせして申し訳ありませんでしたねぇ」と言った。
そう、彼も頑固な人で、「間違えた」ことは謝らないのだ。こういう人であることは、この20年の中で感じ取っていたので、もう、諦めているし、先に書いたように、謝って欲しいわけでもなく、ボクはボクが納得したいだけなのだ。
★
初夏にこんなこともあった。静岡県にドライブに行った。慣れない道を走っていた。
分岐が多く、目的地に行くための正しい道を行くために、目印の看板を探しながら走っていた。
ふと、バックミラーに目を向けると、パトカーが付いてくる。大きめの音で音楽を聴いていたこともあり、止められていることに気が付かなかった。
側道に車を停めると、警察官が駆け寄ってきた。
「一時停止違反です。気付きませんでした?」
「一時停止?さっきの交差点では、意識して止まったつもりでしたけど?何か違反してました?」
「あー、あそこではなくて、そのずっと前です。」(少なくとも数百メートル進んでいて、見えなくなっている距離。高速道路近くでもあり、戻るのも難しい。)
「いや、認識してません」
「そうですか、これから〇〇で一時停止違反をしたという切符を切らせて頂きますが、間違いありませんという署名を頂けますか?」
「いや、認識していないものは、署名できないですよね。何か証拠はありますか?」
「証拠はありません。でも、私たちは2名で見ていました。」
「うーん、困ったな。あなた方2人が見ていたといって、何の説得力もなければ、事実だという証明にもなりません。それを言うならば、こちらは3人乗っていて、3人とも認識がないわけで。数で言えばこちらの方が多いですよね。認識していないものに対して、青切符に書いていることが正しいと言う署名をしろと言うのもおかしくないですか?大前提として、警察が言うことは常に正しい、という信用が社会にないと、難しいですよね?そして、あなた方はその信頼が、少なくともボクには得られていないのですから。サインをしなかったら、どうなりますか?」
「不服です、という用紙を用意しますので、そちらにサインして頂くことになります」
「じゃあ、それで。」
(もう1人の警官、おそらく先輩警官がやってきてGoogle mapsの写真を見せる)「すみません。ここなんですよね。記憶にないですか?」
「はい、ごめんなさい。気付いていれば止まっていますし、無意識だから、そこで止まったかも、止まっていないかも、わかりません」
「では、青切符に間違いありませんと、サイン頂けますか?」
「いや、だから、止まっていると主張しているわけでもなく、それもわからないから、間違いありませんとのサインは出来ないでしょう?」
「いや、でもですねー、うんたらかんたら、うんたらかんたら・・・」
(あー、もうめんどくさいな。ま、99%は俺が見落としてたんだろうな。でも、認識してないことに、間違いないとサインは出来ないよな。あっ、でも、あとでドラレコ見たら、確認できるな。よしここは、もう時間取られるのも嫌だし、後でドラレコ見て納得すればいっか。ここは、証拠を示されていないし、納得もしていないけれど、警察権力に屈してサインしよう)
「わかりました。もう、面倒なんで、あなた方が、納得していなくても俺たちがいうことが正しいのだからサインしろというのであれば、ボクは権力に屈してサインすることにしますよ。納得していないけれど権力に屈してサインさせられた、と、そのまま書いてもいいですか?」
「いや、それは困ります。」
「だったら、わかりました。この紙の裏に、あなたの所属とフルネームを書いてくれたら、ボクは警察権力に屈して、大人しくただサインだけ書きますよ。それでどうですか?」
「(先輩警官に良いですかね?と尋ねたあと)わかりました、じゃあ、それで」
ボクは警察権力に屈して、サインをした。
そして、ドライブから帰った後、家に着いてゆっくりとドラレコの確認をしたら、スルスルっと一時停止の地点を止まらずに通過していたのを確認し、納得出来て、気持ちよく反則金の7,000円を支払った。
うん、やっぱり、ボクは納得したいだけなのだ。事実を知りたいのだ。
きっと、「そんなこと知って何になるの?」とか「空気読めない人」とか「めんどくさい人」とかって嘲笑う人もいるだろう。
それも、わかってる。
もう、何度も言われたこともある。
でも、この小さな1つに対して、「まぁ、いっか」にしてしまうと、それが2つ、3つに増えていく。
そして、人生全体が、「まぁ、いっか」な人生になるんだよ。
「一事が万事」
「細部に魂は宿る」
ボクはこれがとても大事だと思ってるんだよね。
不器用で面倒なやつかもしれない。
見て見ぬ振りできないし、誤魔化すのも嫌だ。
会社員時代、納得できないことをやらされていた時には、本当に苦しかったし、鬱症状も出てきてしまった。
こんなのだから、社会に適合出来ず、会社勤めが合わないのかもしれない。
でも、これがボクの生き方であり、ボク自身なのだ。
これから先も、こうやって生きていく。
しかも、きっと、この性分をより発揮しながら生きていくことになると思う。
※写真は7月末に輪島の喫茶店で食べた自家製プリン。特筆すべきものが何もないのが、とてもいい感じのプリン。
1969年、佐賀県生まれ、大阪府堺市育ち。幼少期から生活保護家庭で強い劣等感を抱えて育つ。中学二年生の夏、脳性マヒの級友が、300mを1時間以上かけて泳いだことに感動し、千葉大学教育学部養護学校教員養成課程に進学。1992年に卒業後、劣等感から抜け出すべく俳優の道へ。国民的アイドルとの共演を果たすが、その後挫折。28歳でリクルートグループに就職。求人広告営業で8年連続表彰されるが、部下育成につまずき、コーチングと出会う。コーチの「人を応援する生き方」に使命を感じ、2008年独立。株式会社プラス・スタンダード代表取締役に就任。