自分史 幼少〜中学生時代

1969年6月6日。佐賀県唐津市に生まれる。
その後、幼少から思春期を、大阪府堺市で育つ。
(湊幼稚園〜堺市立市小学校〜堺市立月州中学校)

〜幼少・小学校低学年〜

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幼稚園・小学校低学年までは、かけっこも友達より遅く、特にこれといった「どんな子」を表現するための記憶がない。数少ない記憶を絞り出しても、住んでいた団地の下にあるパン屋さんのおばちゃんに「たぁ坊はしっかりしてるな」と毎度のように言われていたことくらいしか鮮明に出てこない。

親が一時期スナック経営をしていて、生活が不規則だったから幼稚園バスで団地の下まで帰ってきたら、他の子はママが待っていてくれたけど、僕だけひとりで、上まであがったっけ。映像では出てこないのだけど、寂しかった感情は残ってるな。

そして、もうひとつ。これはちょっと仕事につながったかも。幼稚園のお遊戯会で舞台の上で演技(踊り?)をした時、すでに気持ちさを感じていたことを微かに覚えている。幼稚園時代にどんな子どもだったか?の記憶はこれぐらいかなぁ。
(いや、1つ隠していたことがある。嘘ついてました。他の男の子と違わず、スカートめくりをして遊んでいたことも覚えている。好きだった女の子の名前もフルネームで覚えてる。中学の時、塾で再会した時には、ドキドキしたなぁ。)

小学校は、地元の公立小学校。小学校に入ってからは、生活保護家庭に育っていたことから「普通じゃない」という劣等感が強かった。「普通」に憧れて、大きくなった。大人になってコーチングに出会うまでは、その劣等感に振り回されて、感情の起伏がとても激しかった。相手は馬鹿にしたつもりはなくても、僕の中の劣等感が反応して「馬鹿にされた!」と捉えてしまって、反射的に振る舞ってしまうことが続いていた。それは、自分と向き合うことで、徐々に徐々に自分を認めて受け入れられるようになったけれど、今も正直なところ、まだ100%ではないと思う。時々、その感情が強く溢れてくる。無くなったことにしても問題ないかもしれないけれど、コーチングに出会ってからは、そんな自分をごまかしたり、無視することなく、その存在をしっかりと見てあげられるようになった。

「普通の家に生まれたかったな」
ずっと、ずっと、そんなセルフトークを何度も繰り返していた。

〜自我の意識、そして恋〜

4年生の頃から、少しだけ走るのも早くなり、ある日、突然、友達に勝てるようになった日のことを今でも鮮明に覚えている。なにをやっても勝てなかった子に、突然勝てるようになったのだから。このころからか、、、勝ち負けにこだわるようになってきたのは。

小学校の高学年になると、子供会のソフトボール部に入って、土日は練習に明け暮れる。時にはザビエル公園(近くの公園で、野球ができる広場がある)の場所取りもあって、夜が明ける朝5時から練習なんてこともあった。

6年生の時には、キャプテンをやったりした。いまから考えるとすごく狭い地域内での大会だったが、予選リーグを勝ち抜き、市の北部リーグへ進出するために必死で練習し、それを仲間と一緒に果たした経験は、今の僕の人生にも大きな影響を与えていると思う。

このころからか、人前にでることを「楽しい」と感じ始めていた。
そうそう、これを書きながら思い出したが、子供のころを過ごした地元の祭り「堺まつり」のパレードで、外国の民族衣装を着た方々の先頭をプラカードを持って歩く役目をもらったりもした。(どうやって選ばれたんだったっけ??)

淡い恋愛の話も、少し思い出した。6年生の頃、5年生の女の子Mちゃんのことを好きになった。
毎日のように、Mちゃんがくるかどうかもわからないのに、ひと目会いたい気持ちで、Mちゃんの家の近くの公園に友達Sくんと通ったものだ。あとから知ったことだが、SくんはMちゃんの妹のAちゃん(4年生)のことが好きだったらしい。。。
Mちゃん、今はどうしてるかな?幸せに暮らしているといいな(^^)

〜挫折感、そして成功体験〜

こんな小学校時代を過ごし、地元の公立中学校へ進学。部活は、祖父が卓球の審判をやっていたこともあり、卓球部へ入部する。。。。も、1ヶ月ほどで、退部。先輩の理不尽なしごきに耐えられなかった。(今考えても、あれは理不尽だったと思う。) で、友人に誘われるがまま、これまたすぐに陸上部へ。陸上部は、上下関係もそれほど厳しくなく、面倒見のよい親切な先輩方にお世話になった。

人よりは少し足が速い程度で、陸上部に入ったものだから、短距離も長距離も、ましてや跳躍や投擲など、何も得意なジャンルはなかった。何となく「近いゴールに向かって全速力」という性格が短距離向きだったので、はじめは100Mから入ったが、市内大会では、まったくもって予選を通過できるレベルではなかった。そして、200M、400Mと距離をのばすのだけれど、結果は同じ。なにをやっても敵わないという大きな挫折感を味わっていた。

そんなある日、転機がやってきた。僕を陸上部に誘ってくれた同じクラスの友達が、「ハードルをやってみたい」と顧問の先生に話していたのを聞いていて、思わず「僕も」と言ってしまった。その友達は「長介」と呼ばれていた。2年の初夏だった気がする。後輩1人、長介、僕、そして同級生で同じクラスの女の子、Tちゃん。この4人でハードルの練習を始めたのだった。(僕はこのTちゃんが好きだったが、中学時代2回もフラれている。)

ハードルを始めたものの、指導できる先生もおらず、なかなか伸び悩んでいた。ある時、NHKで「ハードル講座」のようなものをやっていて、「飛ぶ」のではなく、「またぐ」方法を、人間の間接が動く仕組みをベースに論理的に解説している番組を見て「これだ!」とパラダイムが変わるのを感じた。論理的に、どのようにすれば「またぐ」ことができるかは理解できていたので、あとは筋力をつけ、柔軟性を高めながら、その動きを身につけていくことで、自己ベストはどんどん更新されていった。

そして、いよいよ迎えた夏の堺市大会。初出場でファイナルに残り、3位で表彰台にまで上がれたのだった。このあと、市の大会では常に3位入賞(2位にはなれなかった)。大阪府の大会でも、セミファイナルに残れるようになり、ファイナルももう少しというところまでいった。ベスト8に残れず、ベスト10止まり。小さい小さいことだが、ひとつの成功体験になり、また注目を浴びることの気持ち良さを、ここでも感じていたと思う。

これには後日談がある。高校に入った後、陸上部のメンバーから声をかけられた。「お前、中学の時、ハードルやってただろ? お前はいつも3位で、俺はいつも4位。お前の背中を見て、すぐ後ろを走ってた。だから、俺はお前のこと知っているけど、お前は俺を知らないだろ?」と。

確かに、知らなかった。1位、2位の選手のことは知っていたが、後ろの選手のことは頭になかった。なんとも言葉にするのが難しい気持ちになった。少し誇らしく、少し申し訳なく、少し切ない感覚。「そうやったんやぁ」と答えるのが精一杯だった。

〜自分らしさを引き出してくれた出来事〜

中学校2年の時、水泳の授業で300m泳ぐテストがあった。僕は運動神経はまぁまぁ良い方だったけれど、水泳はあまり得意ではなかった。300mは何とか泳いだものの、泳ぎ終わった後は、手足がだるくて、息切れも激しく、プールサイドで横になっていた。そんな時、隣のクラスのOくんが泳ぎ始めたことが、みんなの声援で分かった。

Oくんは、脳性麻痺で肢体不自由の障がいを負っていた。手足が引きつって、真っ直ぐ歩けない。彼はとても明るくて、クラスのムードメーカー。人気者だった。一方で、結構チャランポランなところもあって、あまり真剣になることも見たことがなかった。僕のことを「デイビー」と親しみを込めて、そう読んでくれていた。

そんな彼だったが、障がいがあるので300mなんて距離は泳げないだろうと僕はタカを括っていたのだけれど、みんなの応援の声がどんどん大きくなる。僕もいつまでも、ぶっ倒れてはいられない。みんなに混じって、彼を応援し始めた。みんなに応援され、それに応えようと顔を真っ赤にしながら、限界以上の頑張りを見せた彼は、300m泳ぎ切ってしまった。僕はもちろん、彼自身も、彼を応援していた多くのクラスメイトの涙腺が崩壊していた。

非常に感動的だった。僕は「彼の様な障害を持った子の応援がしたい」と思う様になった。当時は直接的にそう捉えていたのだけれど、今から考えると、どこかで、彼のことを「普通じゃない子」と、自分自身と同じカテゴリーに入れていたんだと思う。自分と同じ様な「社会的弱者、マイノリティ、生きづらい人」を応援したいと思う様になった、元となる体験だったと思う。

〜生き方の源泉〜

部活以外にも、中学に入学と同時に始めたことがある。芸能プロダクションの養成所に通い始めた。ある日突然、父が新聞の広告の切り抜きを持ってきたのだった。「忠之、これ、行ってみるか?」と。

週に1度、週末を利用して、大阪・梅田の養成所に通い始めた。時々、関西ローカルのドラマにエキストラ出演したり、一番の思い出は、故・相米監督が撮った「台風クラブ」のオーディションで大阪の審査を通過し、東京まで呼んで頂いて、日帰りだったが、初めて東京に行けたことだ。オーディション会場は、恵比寿にあった劇団ひまわり。オーディション終了後、マネージャーさんが東京タワーへ連れて行ってくれたのが、懐かしい。

今から振り返ると、この経験が、僕にとっての「東京」や「芸能界」を決定づけ、漠然としたあこがれの世界・自分と関係ない世界から、自分自身が生きる世界として、「自分にもできるかも」と現実的なビジョンへと変えさせた気がする。高校受験を控え、3年の夏には2年間通った養成所を辞めたが、その後の僕の生き方を決めた経験となった。