自分史 高校〜大学〜タレント・モデルとして

1985年4月、大阪府立三国丘高等学校入学
1988年3月、同高等学校卒業
1988年4月、千葉大学養護学校教員養成課程入学
1992年3月、同大学同学部同課程卒業
アルバイトをしながら、タレント・モデルの仕事を本格化。

〜劣等感〜

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これまでも生活保護家庭に育ったことから劣等感は強かったのだが、勉強や運動で負けないように頑張って成果を出してきたことで、それは薄らいでいた。そう、薄らいでいただけで根底からなくなってたわけじゃない。誰かと何かで比べて価値を確認し自分は大丈夫、という条件付きの偽物の自信だった。だから、少し背伸びして、自分の学力以上の学校に入学してしまったことで、高校時代は、劣等感でいっぱいだった。

その劣等感の始まりは、1年生の夏休み明けに行われた実力テストからだった。それぞれの学期の休み明けに行われていたと思うのだが、その初めての実力テストで、学年565人中502番という成績だった。
※各教科、上位10番だか20番だか、成績優秀者は廊下に名前が貼り出されるのだけど、僕が三年間で一度だけ貼り出された唯一の科目は体育のみ(笑)3年次の「十種競技」のランキングだった。

中学生時代は、塾に通っていて、塾で予習、学校で復習という感じで勉強していたが、進学校に入学したにも関わらず、塾にも通わず、毎日の予習・復習もせず、夏休みもほとんど勉強せず、中学校時代の友達と、深夜まで遊びほうけていた。それどころか、この試験の後、2学期も半ばになって初めて、クラスメイトが予習・復習をきちんとやっているということを知った。僕は、それくらい勉強に対して無頓着だった。反省した僕は、毎日遊んでいた中学生時代の友達に理解を求めた。

「実は、565人中、502番をとってしまった。もう少しまじめに勉強しようと思う。これまでと同じようには遊べないけど、よろしくな」と。こんなわがままな僕のことを、快く応援してくれた友達にあらためて感謝したい。(ちなみに、この友達は今も、親友として付き合ってくれています。)

〜写真との出会い〜

一緒に遊びほうけていた友達と一緒に始めたのが「写真」だった。彼が一緒にカメラを買わないか、と誘ってくれたのだった。被写体は、駆け出しのアイドルタレント。いわゆる”おっかけ”とまでは行かないが、近くのダイエーなどのショッピングセンターにキャンペーンで回ってくるタレントの写真を撮りに出かけた。あの天才ジョッキー武豊さんの奥様、佐野量子さんの写真が雑誌に掲載されて、掲載料として3000円ほどのお小遣いをもらったこともあった。

動機はかっこよくはないが、こんなきっかけで「写真」に出会った。アイドルから、旅で出会った子どもたちの写真へと、被写体は、全く変わってしまった。でも、今では、一人旅の唯一の友達が数台のカメラであり、自分を表現する媒体として、「写真」は大きな存在となっている。
林忠之の写真サイト”transit”

ちなみに、一緒にあそびほうけていた友達の一人は、いま「写真」を仕事にしている。あの時代のことが、今につながっているのかと思うと、バカしてた青春時代もムダではなかったのだと感じる。なんか、うれしいね。

〜ふたりの女優との出会い〜

高校に入ってから、陸上部に数ヶ月だけ籍を置いたが、夏にはもうやめてしまっていた。それからまた、中学の時とは別のタレント養成所に通うようになり、レッスンを受けながら、時々、ドラマのオーディションや、エキストラの仕事に行くようになる。

そこで関西ローカルの学園ドラマの主演をはっていた女優のAちゃん(中学生)や、関西ローカルの刑事ドラマや、テレビコマーシャルに出演していた女優のBさん(2つ年上の高校3年生)と知り合った。Aちゃんとは養成所も同じで、たびたび会う機会もあり、目の前にいる女の子が、週に一度テレビドラマに出てくるというのが、自分の遠い遠いあこがれの世界を、現実の世界に、ググッと引き寄せてくれるのだった。そして、仕事で知り合ったBさんも、仕事以外の場でも、気さくに会ってくれ、僕がまだまだ知らない撮影現場の話などを、いろいろと話してくれたのだった。僕は、この2人の影響を受け、ますます芸能界で仕事をしたいと考えるようになった。

〜絶対的な信用、主体的な生き方〜

詳しい時期は忘れたが、高校に入学後、僕は叔父の名前で勝手に公団に応募し、1発で見事、当選! まったく裕福ではない家計を知っていながらも、父の不倫による家庭内不和が理由で、家にいるのが嫌になった僕は逃げた。そして、僕は贅沢にも部屋を借りることになった。このことで高校の友人の親から、うちの親へクレームが入った。

「●●の母ですが、いつも息子がお世話になっています。今日、電話させていただいたのは、息子から少し気になる話を聞きまして。林さんのうちでは、お宅の近所に息子さんのお部屋を借りて、一人暮らしをさせているとか。。。そんなことで、良いのでしょうか? うちの息子も遊びに伺っているようですし、少し心配です。」

今、自分が親の立場になって、この友人のお母さんの気持ちも分かるようになってきた。ただ、このときの母の言葉に、僕は感激した。

「私は、息子のことを100%信用しています。だから、●●さんも、息子さんのことを信用されてはどうですか? 彼らは少しずつ自立しています。悪いことなんてしませんから。」

絶対的に、人を信用する気持ち。そして、人からどのように見られようと関係ない。自分の価値観で、自分が正しいと判断したことに対して、まっすぐ自信を持って生きる、ということを学んだ気がする。母親のこういうところは本当に尊敬する。当時は、こんなに明確には、自覚していなかった。けれど、間違いなくその「生きる」スタンスを、母から学んだと確信している。

ちなみにその友人は、とても優秀で、東証一部上場企業で管理職になり、立派なビジネスマンとして活躍している。そのほか、高校時代につるんでいた友人達も、自動車メーカー、農機メーカー、総合商社で活躍していたり、ハーバード大学教授として研究を行っていたり、みんな大活躍していてとても刺激をもらっている。

〜大学生進学、上京、タレント・モデルとして〜

千葉大学への進学により上京、いや正確には千葉県なので上京とは言わないのか。。。(関西の人間にとっては一都三県はみんなTOKYOです^^) 高校1年生の時に、565人中502番だった僕も、なんとか大学に現役合格することができた。大学に入学してすぐ、芸能界で仕事をするために、いくつかのオーディションを受けた。そして、オーディションに合格し、TBSの深夜バラエティ番組にグループタレントの一員としてレギュラー出演することになった。その後、すぐに端役だったが、当時人気絶頂の光GENJI主演の映画に出演するチャンスにも巡り会えた。続いて、TVCF、カラオケビデオ、ポスター、新聞広告、雑誌広告、カタログ、企業宣伝ビデオなど、様々なモデルの仕事も経験。

今から考えると、まだまだ学生のアルバイト気分で、プロとしての意識が低かったと感じるが、当時の自分としては、自分の才能を生かしながら、お金を稼ぐことを学んだ気がする。そして同時に、自分の意志で仕事を選び、自分の力で生きる厳しさや楽しさも感じていた。

学生時代は、アルバイトやタレント・モデルの仕事をしつつ、勉強はあまりしなかったものの、学校へはほぼ毎日きちんと通って、そこそこまじめな学生だった気がする。これは、家が裕福でもないのに、一人暮らしをさせてもらい、仕送りまで貰っていた罪悪感が背景にあったのだと思う。

4年間できっちり卒業を迎え、4年の夏にはクラスメイトたちが教員採用試験を受ける中、僕は何もせずに過ごしていた。教育実習の時に中学生から「先生」と呼ばれてその言葉を素直に受けとれなかったボクがいた。生徒15歳、自分は22歳。特別何かを体験したわけではなく、みんなよりもちょっと長く学校に行ってるだけのボク。ボクにとってはその「差」と「先生」という言葉が釣り合わなかったのだ。塾の先生は勉強を教える人、学校の先生は、上手く言えないけど、「人生を語る人」っていうかさ、「生き方を示す人」「生き方を背中で見せる人」って感じがしていて、そうなりたいんだけど、当時の僕にはまだ資格がないって感じたんだよね。(あっ、書きながら、今、夢がかなってるじゃんって思った^^)

こうして「先生になる」という選択を捨てた。よし、自分のやりたいことで生きてみよう。。。

そう決めて、就職活動は何もしなかった。僕は、自称「フリーターの先駆け」である。当時は、まだ大卒の就職率は80%を越えていた時代。当然、不安がなかったわけではないが、中卒で何の後ろ盾もなく、健康状態も良くない父が、素行は良くはなかったものの、自分たち家族を育て、守ってきた強さ・生き方を感じ、きっと僕は勇気づけられていたんだと思う。

いや、優等生っぽく、良く言い過ぎかもしれない。僕は、両親をどこかで馬鹿にしていたのだと思う。あんないい加減な父でも食ってこれたんだ。何をしていても食って行けるだろう、と。だから、「自分も自分が思うように生きてみよう。きっと何とかなる。一度しかない自分自身の人生なんだからここで妥協したり、後悔する方が、もったいない」と考えていた。このボクの気持ちを汲んでくれて、何も口出しすることなく、ボクのやりたいことをやりたいようにやらせてくれただけでなく、いつも応援してくれていた両親に本当に本当に感謝したい。それは自分が当時の父の年齢に近づき、結婚し、子を持ち、育てる課程でより強く感じるようになりました。ありがとう。

そして大学卒業後、ガソリンスタンドでのアルバイトで生活費を稼ぎながら、タレント・モデルとして「生きる」ことを始めたのだった。